スーッと抜ける目標を持って生きる。目的を持った行動をする。何かを達成したいと思う。この年明けは、いろいろと考えることがあった。やりたい気も満々だった。しかし、どこかにスーッと抜けていった。これが、自然体なのかもしれない。これで、何か叶うのかもしれない。
それでも。先週末はパワースポットに行き、楽しんで来ました。それでも、何も変わらない。変わった気がしない。いや、変わりたくないのだ。今のそれなりの心身の安定感、安定した状況を崩すことなく、嫌だと感じる事だけ取っ払って、なおかつ新たな幸せ要素を入れたいと言うのだ。こんなワガママは、許されるはずはない!いや、実は許すも許さないもないのだが、この許されない感の発信源が味方だと思っていた安定感そのものなのだ。この安定感を困った毒物を発しないものに変えてしまえばよい。それでも変わりたい。変わった結果、よく似ていたっていいんだ。
手放す、任せてしまう脳には(潜在意識?敢えて脳と記載する)オートパイロット機能があるという。願望としてできるだけ具体的に思い描いたものは、執着せず一旦手放し、脳?ハイヤーセルフ?宇宙?に任せてしまいなさい、ということも聞く。紙に書けば叶うなんてのも似ていると思う。 人の願望は、中途半端に思考にこびりついているから厄介で、ある意味、完全に忘れてしまえば幸せで、忘れたころに叶えばより幸せな気がするため、個人的には好きな概念である。前のテーマと相反するような感じもするが、実はそうでもなく、仮想で願望実現をしたかのように思い浮かべることも、ずっとその状態でいるべきとは言っていない。(言っていることもあるが)結局のところ、他人から見たら危ない人かもしれなくても、仮想であれ、現実であれ、常に幸せだと感じられる道を通りたいだけで、大切なのは、何を幸せだと感じるのかを自分で選んで決めることだと思う。
すでに叶ったかのように脳は(潜在意識?敢えて脳と記載する)現実と仮想の区別が付かないという。すでに、その事実が現実かそうでないか区別は付かないが、よく聞くのは、だから願いは既に叶ったかのように言葉にしたり、思ったりするのが願望実現の近道だという。しかし、少し待ってほしい。現実か仮想か区別が付かないから、仮想の願望実現を生み出し、現実がその方向に向かうように仕向けるのだと思うが・・・確かに、おかしくはない。ただ、その願望実現の感覚を知らないから、願望を実現したいのであって、その仮想化はそう簡単ではないのではないだろうか。また、脳が現実と仮想の区別が付かないのであれば、仮想で願望実現してしまえば、その充実感を味わうことができ、現実化することなく、満足してしまうのではないのか。なぜ、現実化する必要があるのだろうか。願望が実現した場合、仮想として思い浮かべていたものに向けて、結び付けを行うのではないだろうか。ここは、思った通り。この部分は、こういう解釈なのか・・・などと。解釈を間違えているかもしれないが、ふとそう思った。
エネルギーブログやフェイスブック、ツイッターにLINE、Google+に755など、ソーシャルネットワークサービスが増えている。苦手だ。と公言しつつ、一定の更新を続けている人には敬意を覚える。僕は、苦手だとは思わないが、大変面倒だとは思う。行ったところの記録や、心に残ったことを書き込んだりするが、あくまでも自分へのメッセージであって、見たければ見れば?という世界である。また、多少ひねくれたところがあるからか、ブログに記載する場合は、特に感情について、ある種の脚色を加えている。また、それでも足りない場合は、事実に少し色付けをしている。ジャーナリズムであれば、誇張表現(平たく言えばウソ)が過ぎるため、大変よくないことだが、これは創作だと考えているため、よいだろう。最近では、書いたものを記載しないことが増えてきた。書いたことで既に役目を終えている(ストレス解消?自己表現完了?)ことに気が付いたからである。敢えて、他人が見るかもしれないところに出す必要もないと考える。また、こうも思う。情報発信するためのエネルギーが大幅に欠如している。どうしても言わなければならないことでも、どうしても言いたいことでもなく、かつ、誰かの役に立つ情報を発信しているとはとても思えないのだ。そんな訳ではあるが、残りのエネルギーをこめて、今回はアップするとしよう。
神様の言う通りあんまり、こういう日記を続けたくないんだけれど、やだなあと思ったことがあります。NLPを学び始めたころ、自分を変えるというよりは、他人を変えるすべを知りたいと思っていました。「最終回を迎えるころ、必ずあなたは変わりますよ」と言われても、ピンとこなかったし、じっさい実感はありませんでした。もともと、感化されそうだなーと思ってみていた周りの人たちが、案の定、大きな感動をされていた気がします。ヒプノセラピーを習い始めたのは、自分の願いを叶えたいから。願いがかなったかどうかはさておき、一定の変容と行動力、そして、幾許の怒りを覚えました。そして、細々とNLPの実践会等々参加させてもらいながら、レイキやシータヒーリングに出会い、自分に正直になりました。自分が幸せになって、周りを幸せにしたいと思いました。人とのつながりがどうとかこうとか言うよりは、欲しい時に、愛されている感を得たいんだなと思います。僕の追及は、自分が満足すればまずはゴールだと思っていて、シータヒーリングを究める、レイキを究めるというよりは、自分の形を確立したいというところだと思っています。だから、シータヒーリングは応用DNAまででいい、次に進みたいと今は思わない。インストラクターとして人に伝えたいとか、人をいやす技術を得たいとは思わなくはないけれど、今はそれは考えません。では、なぜ、シータヒーリング等、学び・実践し続けているのでしょう。自分の中でいつまでも解決しない問題を大事にして、その場にいつづけたい、そんな願望がメリットにあるんだと思います。自分は、かつてから見て、変わったと思います。変わってしまったと思います。このままでは本末転倒です。波動がどうだとか分からないですが、次元の低い望みで手間取っている感じ。ただ、今ここは幸せ。そして穏やか。でももっと幸せを目指したいけれど、感じ得る一瞬先は闇。またも、変化と成長の時。どうも、近くにツインソウルがいるようで気になるし、面倒だとも感じてて、ちょっと、いつもとは違うものを感じています。これが、いい思い出になりますように。
鬱憤まあ、僕の心にはたくさんのブロックがあるなあ。それを認めた上で、書くセラピーを自分に施したい。・褒められるのを認めたくない。 → 一番褒めてほしい人に褒めてもらえていない。・この人とは合わない/この人は嫌いだと言ってはいけない。・プライバシーは尊重すべきである。・挨拶は必ずせねばならない。・好きな異性には誠実でなければならない。・エロは悪だ。・すべての人にいい人だと思われていなければいけない。んー、難しいなぁ。その瞬間、瞬間が、望んだとおり幸せだったら、後はどうでもいいんだけど。
お金と彼女と・・・お金は生活に困らない程度には持っている。趣味の宝くじや株式投資も人生をかけるほどお金をかけていないけれど、ちょいちょい当たるし、ちょっぴり儲かっていたりする。だから、これ以上に豊かさなんて引き寄せなくても十分満足だと思って、豊かさを引き寄せるセミナーとか、実践会には全く興味がありませんでした。ひとつは、かつて参加させてもらっていた、心のブロックを取って目標をかなえて行きましょうよという楽しい集いが、日を追うごとにお金儲け主体の話になっていきました。感じたままに言うと、狡いやり方、お客さんの最善になりかねるやり方を一生懸命、教えて下さるようになっていたように感じて嫌悪を感じた経験があるからだろうな、と思います。短絡的なのか、モノが欲しい、何か食べたい、休みたいという欲望の他は、誰かに愛されたい、愛したい(≒ソウルメイトが欲しい)というくらいしか、願望が思い浮かばなかったのですが、実際にソウルメイトが近づいてくると、いらないや、と思ってしまっている気がします。口説くモチベーションがないんでしょうね。面倒くさい!って。結婚したり、子供をなす幸せは知らないし、恋人のいる幸せはすっかり忘れてしまっているのに、ソウルメイトを引き寄せるメリットはどこにあるんでしょう。だって、今はこれで幸せだもんね。安定しているし。あえて、これを変えるリスクを取る必要がどこにある?変えてどうする?ブロックがまだまだある、そして、全然準備ができていない、と言われるとその通りなのですが、なんか、なんか、なんかこう・・・ちょっと、ソウルメイトがいるっていう幸せを体験してみたいな、ってなんか軽い思いなんじゃないかな、って思うんですよね。自分がどういう決断をしようと、どう生きようと人に申し訳なく思う必要はないとは思うのですが、ソウルメイトセミナーや、ソウルメイトレイキに参加しながら、こういう思いが出てくるのは、もったいないなあと感じるのです。異性として魅力的やなーと感じたのを相手に伝えるのは、タイミングを外すと嫌らしいなあと思っていたのですが、最近は、異性としてというより、人間として好きなんですよーと異性に伝わってしまうと失礼な気が勝手にしています。なんとなく、そんな面倒な願望はおいといて、他の望みは・・・と出てきたのが、お金のことでした。お金儲けは、人にどう思われていようと、基本的には他人は関係ないから。そんな理由で、豊かになりたいの?そんな半面、別にどんな理由でソウルメイトやお金を求めたっていいじゃんという、自己許容の気持ちもあるからこそ、やっていけるんだろうなと思います。
無心ある意味、現状と真実に向き合った結果、他から見ると現実離れしていた感がありましたが、今、現実に戻ってきました。計画に沿った暮らしをすると決め、昨年末に手帳を買い求めて、使いこなせているとはいえないまでも、ひと月使ったという実感を持った一月末。敢えて、二月に入ってからこの手帳を持たず、こころのおもむくままに過ごした二週間。やっとのことで、またこれを手にし、仕事がある現実に戻ってこようとしています。社会人を5年以上もやっている人が言うことではありませんが、ようやく、先輩の手によらず会議の準備を行えたことがちょっとした自信になりました。また、予定を書き、実績を書くことも久しぶりな気がします。なかなか、うまく言葉で表せませんが、全体的に前へと進んでいくんだなと実感しています。
こころの一週間3そんな感じで、こころが少しきれいになったころ、子供たちにであいました。みんなに心を開くわけではない子供に心を開いてもらえている気がする。それは、自分が子供の心に近いからか。(少年の心か幼稚な精神かは知らない)とにかく、喜びに値するもので、また自分の存在意義を強く認められるものでもありました。しかしながら、強く気にかかるのは今の自分との折り合いです。親しい人、身近な人にはしられていたかもしれませんが、次のような感じでよく評価していただくことがありながら、現実はそうでもないようです。優しい人まじめな人リーダーシップのある人自分を悪く言いたいわけではありませんが、強欲であり、あまりやってはいけなさそうなこともやったことがあったり、人に聞かないと、行動できないところがあったりします。みんなそうかもしれませんが、自分だからそういうところも知っており、否定の心が生まれたりもします。親に向け、友達に向け、彼女となりうる人に向け、これでいいんだろうかと思うことがありました。異性と付き合うことは性欲を満たすこと。親にそう思われている。彼女となりうる人にそういう目で見ていると思われている。そう思っていました。好きなアイドルには、大してそういう希望があったわけでなく、安心はしていたのですが、今までの好みの異性の条件には、自分よりもずっと若い人がいいというのがありました。甘えられて自分を確立したい共依存の姿勢のあらわれであり、欲望優位の人付き合いを求めていたのかと思います。だから、僕が異性を尊重する行動は、全く手出しをしないことでした。直接の結果でないとしても、最終的には、相手の心をずたずたにしてしまっていました。こうなったのは他人のせいにはしたくない、でも自分のせいにもしたくない。いろいろ感じた上で、手放してしまおうと決めました。そして、強く感じる結婚する感。うれしいようで、強すぎる感覚は、意図的にウェディングソングを聴いたりとか、部屋を整理したりしていると不思議なことに気持ちが和らぐことが分かりました。そしてこれが、近づいていることだとも分かりました。そこで、二つ気付いたこと。ひとつは、難しいことを考えにくくなったこと。もうひとつは、こんなことを考えなくてもかなりうまくいってしまうってこと。